はじめて「ここにいてもいい」と思えた日― 異国で揺らいだ自己価値と居場所の感覚

人生と自己像

異国で揺らいだ自己価値

アメリカで暮らし始めたころ、
私は「外国人」になるということの重さを、想像以上に感じていました。

英語が完璧でないこと。
発音が違うこと。
言葉が遅いこと。

それだけで、
自分という人間の価値まで小さくなったように感じていました。

レジで聞き返されるたびに、
胸の奥がひりつきました。

「Sorry?」ともう一度言われるたびに、
自分の存在が、少しずつ削られていくようでした。

言葉は、単なるコミュニケーションの道具ではなく、
自分の存在を社会に差し出す手段でもあるのだと、そのとき知りました。

うまく言えなかった帰り道、
頭の中で何度も会話をやり直しました。

ああ言えばよかった。
あの単語を使えばよかった。

そして最後には、
「どうして私は、こんなにできないのだろう」と
自分を責めるところまでいきました。

周囲には、
自然に英語を話し、笑い、冗談を言う人たちがいました。

同じ異国で暮らしているのに、
まるで最初からこの社会に属しているかのような姿。

私は、その姿を見るたびに、
自分が“未完成のまま放り出された人間”のように感じていました。

「ここにいてはいけない」という感覚

本当は、誰かに排除されたわけではありません。

けれど私は、
自分で自分を排除していました。

「もっとできるようになってから」
「堂々と話せるようになってから」
「迷惑をかけなくなってから」

その条件を満たすまで、
私はこの場所にいてはいけないと、どこかで思っていました。

ここで起きていたのは、能力の問題ではありません。

「できる自分だけが許される」という、
自己像の条件づけでした。

この条件は一見すると前向きに見えます。
努力すればいい、成長すればいい。

けれど実際には、
どれだけ満たしても、次の条件が現れます。

だから安心は訪れない。

海外生活で孤独を感じるのは、
友人の数の問題ではありません。

“自分が自分を許していない”状態が、
いちばん孤独なのだと思います。

はじめて「ここにいてもいい」と思えた瞬間

ある日、近くのカフェに入りました。

注文のとき、やはり少し緊張しました。
声が震えていないか。通じているか。

カップを受け取って席に座ったとき、
ふと気づいたのです。

私は、何も証明していない。

英語が上手になったわけでもない。
自信がついたわけでもない。

それでも、私はここに座っている。

誰も私を追い出していない。
誰も、私の未熟さを問題にしていない。

問題にしていたのは、私だけでした。

その瞬間、
こころの奥で、小さな感覚がほどけました。

「私は、ここにいてもいいのかもしれない」

それは、自信ではありません。
あきらめでもありません。

“条件つきの自分”をやめた、
ほんのわずかな緩みでした。

居場所とは、自分を排除しないこと

「ここにいていい」と感じられる感覚は、
人がどこかに属していると感じることとも深く関係しています。

belongingという言葉は、この感覚を説明するために使われることがあります。
その意味については、こちら「belongingとは何か?」で詳しく整理しています。

ただ、ここで見えてきたのは、
もう少し手前の感覚でした。

居場所とは、
どこかに属することではなく、
まず自分が自分を排除しないこと。

不完全なまま、
能力が足りないまま、
誰かより劣っていると感じながらでも、

それでも
「ここに立っていることを取り消さない」こと。

異国で暮らすということは、
環境に適応すること以上に、
自己否定との向き合いなのかもしれません。

おわりに

もし今、
どこにも属していないように感じているなら、

それは、環境の問題だけでなく、
あなたがまだ、「条件つきの自分」にしか居場所を与えていないからかもしれません。

「これができたら」
「もっとちゃんとしたら」

その条件を外したとき、
はじめて見えてくるものがあります。

あなたは今、
どんな条件を満たしたら
自分に“存在していい”と言おうとしていますか。

そしてもし、
その条件を少しだけ緩めたとしたら。

いま立っている場所は、
ほんの少し違って見えるかもしれません。