英語が話せないというだけで、
自分がまるで価値の低い人間になったように感じたことがあります。
アメリカで暮らし始めたばかりの頃、
私は、社会の中でとても小さな存在になったように感じていました。
日本では、長年言葉を使う仕事をしてきました。
言葉は、人と人をつなぐ最も大切な手段でした。
けれどここでは、
その言葉が、思うように使えませんでした。
言葉が出てこないとき、人は沈黙を選ぶことがある
渡米して間もない頃、
カフェでタピオカティーを注文したことがありました。
はっきり言ったつもりでした。
けれど渡されたのは、まったく違う飲み物でした。
おそらく、発音が伝わらなかったのだと思います。
本当は、
「これは私が注文したものではありません」
そう言いたかった。
けれど、その言葉が、出てきませんでした。
後ろには列ができていました。
私は何も言えず、違うお茶を受け取りました。
席に座った瞬間、
自分がとても無力になったように感じました。
日本語なら、当たり前にできることができない。
その現実は、静かに、でも確かに、
私の中に残りました。
自分が劣っているように感じてしまう瞬間
スーパーのレジでも、緊張しました。
聞き取れなかったらどうしよう。
うまく答えられなかったらどうしよう。
次第に私は、キャッシャーのいるレジを避け、
自動精算機を選ぶようになりました。
人と話さなくて済むことに、安心している自分がいました。
それは語学の問題であると同時に、
「自分を守る選択」でもあったのだと思います。
相手にされていないのではないかという不安
英語が自由に話せないとき、
相手と対等に存在できていないように感じることがあります。
自分の言葉が十分に伝わらないことで、
自分の存在そのものが薄くなってしまったように感じる。
本当は、相手は何も思っていないのかもしれません。
けれど、言葉が通じないというだけで、
「自分は相手にされていないのではないか」
「自分はここにいていいのだろうか」
そんな不安が、こころの中に生まれました。
英語でのスモールトークは、
私にとっては「スモール」ではありませんでした。
その短い会話の中でさえ、自分の不完全さを突きつけられているように感じたのです。
ここで起きているのは、単なる語学の問題ではありません。
言葉は「私はここにいる」と示す手段でもあります。
その手段が使えなくなると、能力以上に、自己価値が揺らぎやすくなります。
英語での劣等感は、
語学力そのものよりも、
アイデンティティの揺れからだったのかもしれません。
identityという言葉は、こうした「自分は何者なのか」という感覚と深く関係しています。
その意味については、こちらの記事「identityとは何か?」で詳しく整理しています。
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言葉は、自分と世界をつなぐ橋
言葉は、単なる道具ではありません。
それは、自分と世界をつなぐ、橋のようなものです。
その橋を自由に渡ることができないとき、
人は、自分が世界の外側にいるように感じてしまうことがあります。
私は自分に問いかけました。
もし英語が完璧に話せたとして、
私は本当に安心できるのだろうか。
もしかすると、揺れていたのは語学力だけではなく、
「十分でありたい」という思いそのものだったのかもしれません。
それでも、自分の価値が失われたわけではない
けれど、時間が経つにつれて、少しずつ理解するようになりました。
英語が話せないことは、
自分の価値が低いことを意味するのではない、ということを。
それはただ、
新しい言葉の中で、
新しい自分を育てている途中にいる、ということなのです。
あのとき、違うお茶を手に、何も言えなかった自分も、
自動精算機を選んでいた自分も、
弱かったのではなく、
新しい環境の中で、懸命に適応しようとしていた。
その姿を、今は少しやさしく見つめられます。
おわりに
もし今、英語が話せないことで自信を失っているなら、
それは能力の低さではなく、
新しい環境の中で自分の立ち位置を探している過程かもしれません。
言葉を自由に使えない体験は、
自分らしさが揺らぐ体験でもあります。
けれど、その揺れは、
あなたが真剣に新しい世界に向き合っている証でもあります。
言葉は、少しずつ身についていきます。
そしてその過程で、こころもまた、静かに、自分の居場所を見つけていきます。
もし今、英語の中で自分が小さくなったように感じているなら、
どうか急がなくていい。
言葉の橋は、一歩ずつ、あなたのペースで架けていけばいい。
その橋がいつの間にか繋がったとき、
あなたはきっと、以前よりもしなやかに、
そして深く、自分を理解しているはずです。

